「人」って、なんだろう?

たとえば、電車で誰かと肩が触れたとき、わたしたちは思わず「すみません」と言う。
スマートフォンが鳴れば、その向こうにいる「誰か」の気配を感じる。
まだ生まれていない赤ちゃんにだって、「もうすぐ出会う人」という思いを自然に抱く。

声が聞こえなくても、姿が見えなくても、わたしたちは向こう側に「人がいる」と感じとっている。
この感覚は、定義ではなく、わたしたちのうちにある、ごく自然なものだ。

けれど一方で、学校の理科の授業で見る受精卵や胚の映像を、わたしたちは同じように「人」として感じるだろうか?
ゲームの中でナイフを手にしたキャラクターを倒しても、「人を傷つけた」とは思わない。

この違いは、どこから来るのだろう?

おそらく、わたしたちは「これは人として認めるべきか」をめぐって、目には見えないルール——規範にしたがって、誰かを「人」として感じているのかもしれない。

ドイツの哲学者ローベルト・シュペーマンは、「すべての人間は人格である」という言葉で、この問いに応えようとした。
彼は、人間には「生物としての存在(肉体)」と、「文化や社会の中で尊重されるべき存在(規範性)」という、ふたつの側面があると語った。

人間とは、ただの「存在」ではなく、「人格として扱うべき誰か」である。
そしてそのまなざしの持ち方こそが、わたしたちの社会のあり方をかたちづくっている。

たとえば、胎児の権利をどう考えるか。
障害をもつ人が、いまよりもっと「社会の一員だ」と実感できるためには何が必要か。
バーチャル空間で出会うアバターを、「本物の誰か」として扱うことはできるのか——。

これらの問いの奥にはすべて、「誰を人と認めるのか」「どうすれば人として大切にできるか」という、深くて繊細な選択がある。

人間を定義づける、たったひとつの答えはきっとない。
だからこそ、わたしたちは語り合う。
何を「人として」大切に思うのか、そのまなざしの輪郭を、誰かと一緒に、少しずつ広げていく。

しかし、何が「ひと」で、何が「ひとでない」のか——そんな難しい定義は、いらないかもしれない。
わたしたちは本当は、知っているのだ。
どんな存在が、「人として、大切にされるべきか」を。
心の底で、ちゃんと知っている。

執筆:山本大地(倫理学)