言葉になる前に、わかっていること
久しぶりに、大切な人に会う。
支度を整えて鏡を見ると、何か違うと思う。
とくにおかしいところはない。
だけど、どこかしっくりこない。
袖をまくってみる。まだ、違う。
シャツの襟元をゆるめてみると、「あ、これでいい」と思う。
さあ、会いに行こう。
考えてみると、少し不思議です。
正解を知っていたわけではありません。
それなのに、「これは違う」ということはわかった。
哲学者ユージン・ジェンドリンは、この不思議を、詩を書く人を例に説明しています。
詩は途中までできているけれど、次の一行が出てこない。
ひとつ書いてみる。
けれど、違う。
別の言葉を置くと、少し近づいた気がする。
でも、まだ何かが引っかかる。
やがて、ひとつの一行が生まれる。
今度は、不思議なくらいしっくりくる。
ジェンドリンは、私たちが言葉にするよりも前に、状況をひとまとまりとして感じていることに注目しました。
彼は、それを「フェルト・センス」と呼びました。
詩人は、それまでに書いてきた言葉や響き、詩の流れ、そしてそこから先へつづこうとしているものまでを、ひとつの全体として感じています。
だから詩人は、次の一行をまだ知らなくても、それがこの全体に合うかどうかは感じ取れるのです。
その全体が、新しい一行に応えている。
しっくりこなければ、引っかかりが残る。
ぴたりとくると、何かがほどけるように、詩が先へ進みはじめます。
鏡の前で感じた「何か違う」にも、その日、そのときをめぐって、さまざまなものが重なっていたのでしょう。
その日の気分、これから向かう場所。
久しぶりに会うその人、その人とのこれまで。
今日どんな自分で会いたいのか。
もちろん、そんなことを一つずつ考えていたわけではありません。
それでも、そのすべてが重なった「いま」のなかで鏡を見たから、「何か違う」という感覚が生まれた。
私たちが生きている日々には、さまざまなものが、ひとつの状況のなかで重なっています。
いま起きていることには、それまでの出来事や人との関係、自分でもまだ気づいていない望みや、この先に起こりうることまでが入り込んでいる。
私たちはその全体を生きています。
だから、ときどき理由は変わらないけれど、「何か違う」がやってきます。
何が違うのかも、どうすればいいのかも、そのときはわからない。
それなのに、「これではない」ことだけはわかる。
その不思議さのなかには、言葉になるよりも先に、私たちがすでに世界を生きていることが現れています。
「何か違う」と感じるとき。
そこではもう、まだ言葉になっていない何かが、次のかたちへと動きはじめているのです。