見えない「まなざし」に気づいたとき、自由がはじまる

私たちは、自分が自由だと感じている。
ときに、意のままにならないことがあるにしても、基本的には自由だと思っている。
何を学び、どのような仕事をし、いかなる人生を送るのか。
その選択を、能力との兼ね合いはあっても、「自分の意志」で決めていると信じている。

けれど、自分の意志は、ほんとうに自分のものなのか?
私たちは、ほんとうに自由に生きているのか?

ミシェル・フーコーは、近代社会の権力の構造を明らかにした哲学者である。
権力と聞けば、高圧的に命令をしたり、禁止したりする場面が思い浮かぶ。
しかし、彼が描き出したのは、人が「自らすすんで従う」ように仕向ける、目に見えないかたちの権力だった。

たとえば、私たちの内側から、こうした声が響いてくる。
「もっと効率的に」「もっと生産的に」「もっと健康的に」
そうすることがよいことであり、また義務でもあるかのように。
しかし、その声の出所は、じつは外からやってきて、私たちの内に住み着いた「まなざし」なのだ。

フーコーはこのような権力を、ベンサムの「パノプティコン」にたとえて説明した。
それは、「見られているかもしれない」という意識によって、人が自ら従順に振る舞うようになる仕組みである。
たとえ見張る者がいなくても、人は自らを律するようになる。
「こう振る舞うべきだ」という感覚が、身体の奥深く染み込んでいく。

近代社会の権力は、何かを命令したり、禁止したりはしない。
自ら社会的な規範に従うように、人びとの意識や価値観をかたちづくる。
人びとは自由に振る舞っているように思い込むのだが、じつは、その自由は服従と表裏一体なのだ。

では、こうした仕組みから、どうすれば自由になれるのだろうか?
私たちは、社会の外では生きられない。
だから、権力から完全に解放されることはありえない。
しかし、この仕組みを認識することはできる。

見えない「まなざし」に気づくとき、自由がはじまる。
それは絶対的な自由ではない。
けれど、権力とのあいだに、ほんの小さな距離を生み出す。
この余白のなかで、自らの「生き方」について思いをめぐらす。
もっと別のあり方が、ありうるのではないかと。

そのとき、創造的に生きる自由が、少しずつ姿を現すだろう。

執筆:芹沢一也(社会思想)