賢い人は、自分だけが賢く生きようとはしない

私たちは、賢く生きたいと願います。
無駄を省き、効率よく、正しい判断を重ねること。
それが「賢さ」だと信じて。

タイムパフォーマンスを重視し、計画的に動き、情報を整理して判断する。
そんな姿は、いかにも「合理的」です。

けれども、経済学者アマルティア・センは、この合理的な人間像を「合理的な愚か者」と呼びました。
なぜなら、合理的にふるまう人は、「目的」が正しいことを前提にしてしまうからです。
効率よく目標を達成しても、その目標が本当に望ましいものかどうかには、立ち返らない。
そこには、深く生きるための「問い」が欠けているのです。

F.A.ハイエクという経済学者は、次のように語りました。
「私たちは、自分たちが何をしているのかを、ほんとうのところ、知らないのだ」と。

私たちは、自分の人生を理解しているようでいて、その全体像も、限界も、ほとんど見えていません。
ソクラテスが語った「無知の知」——「知らないことを知る」という態度さえ、いまの私たちには失われつつあるかもしれません。
むしろ、「知らないことすら知らずにいる」——そんな「無知の無知」のなかに、私たちは生きている。

それでも、賢く生きることはできるでしょうか。
——そのヒントは、「個人」ではなく「社会」にあります。

言葉、ルール、慣習。
こうしたものは、誰かが計画してデザインしたわけではありません。
数えきれない人びとの営みのなかから、時間をかけて育まれてきたものです。

すると賢さとは、自分一人の判断力ではなく、社会のなかに蓄えられてきた「知」をすくい上げることにあるのではないでしょうか。

賢い人は、自分だけが賢く生きようとはしません。
むしろ、自分もまた愚かであることを引き受けながら、どうすれば私たちが「集団として」賢くありうるのかを問いつづけます。

そのために必要なのが、「言葉」を探るという営みです。
人々の営みのなかで、自生的に育まれてきた言葉には、私たちの知らない知恵が眠っている。
それを掘り起こすこと。
その過程で、自分の考えの限界を知ること。
そしてまた、問いなおすこと。
「賢さ」とは、つねに自分を疑いながら、それでも言葉を信じてゆく姿勢なのかもしれません。

執筆:橋本努(社会哲学)