やさしさを守るものは、やさしさではない

「やさしい社会にしたい」——そう願う人は少なくない。私自身、そのひとりだ。
だが、やさしい社会は、やさしい人が増えれば実現するのだろうか。

やさしい人を前提にして、制度を設計しようとすることは、じつは危うい。
やさしさは、気分にも状況にも、左右されるからだ。
あてにしすぎれば、かえって傷つくことも多い。
「いい人」が支える社会——一見魅力的だが、それは持続可能なものにはなりえない。

アダム・スミスは『道徳感情論』で、人間に備わった共感能力、つまり共感と「やさしさ」が社会の基礎だとした。
しかし、同時に彼は、「正義は構造物を支える基柱であり、善行は装飾にすぎない」とも語った。

スミスにとって正義とは、他者の生命・財産・契約を守るものだった。
背後には「フェア・プレイ」の原理がある。
誰かが誰かを突き飛ばしたとき、当事者でない誰かが憤りを覚える。
このような感情が、正義の根拠となる。
やさしさがなくても社会は持続するが、この正義が崩れれば社会は壊れてしまう。

スミスの洞察をさらに深めたのが、ジョン・スチュアート・ミルである。
彼もまた、やさしさや共感の重要性を認めつつも、それだけでは社会は成り立たないと考えた。
ミルがとくに重視したのが「安全(security)」だった。

それは、誰もが、人生を理不尽に奪われないこと。
たとえ他人がどれだけ冷淡でも、自分の尊厳や暮らしが守られることである。
ミルは、19世紀の常識に挑戦して、女性に財産権を認めよと主張した。
それも同じ理由から、つまり、家庭のなかでさえ、「やさしさを前提にした制度設計」は危うい、と見ていたからだ。

制度は冷たく見える。
だが、その冷たさが、人びとが感情をすり減らさずにすむ環境をつくる。
「いい人」でなければ成立しない社会では、誰もが無理をしなければならない。
やさしさが義務になるとき、やさしさはすぐに摩耗してしまうだろう。

やさしさを守るものは、やさしさではない。
やさしさを期待しなくていい仕組みこそが、やさしさを守るのだ。
本当にやさしい社会とは、「いい人」がいなくても壊れない社会のことだ。
そしてそれは、感情ではなく構造を問い直すところからはじまる。

執筆:山尾忠弘(社会思想史)