考えることは、しんどい。それでも

「考えること」は、しんどい。

ニュースを見るのは、しんどい。
遠い国の出来事。悲惨な戦争。広がる差別。
それらに対して、自分はあまりにも無力に思える。

クラスの中で、浮いていた子がいた。
他の人とは、すこし違っていた子。
周りから無視されて、冗談めかしながら殴られていた。
泣きそうな顔で笑って、「やめてよ」と言っていた。

「やめなよ」と、声をあげようか。迷って、やめた。やめてしまった。
自分も、一緒に殴られるかもしれない。無視されるかもしれない。
その恐怖が、舌を、手を、足を、動かなくさせた。
そんな自分がひどく嫌で、だんだん、あの子から目を逸らすようになった。

「考えること」は、しんどい。
何も見ずに、何も聞かずに。
そうしていれば、傷つかないでいられる。悩まないでいられる。

――本当に?

気がつけば、世界は少しずつおかしくなっていた。
SNSで流れてくる、どこかの国の偉い人の言葉。
目を疑うような内容なのに、賛同の声がいくつも連なっている。
おかしいと、思った。「おかしいよ」と書いている人もいた。
けれど、その人の声は、何倍、何十倍の罵声にうもれていく。
それが「普通」になっていく。
慣れていく。日常になっていく。
思考にモヤがかかり、感覚が麻痺していく。

本当に、それでよかったの?
慣れていいの?
私には、何もできなかったの?

ある日、友達とランチをしていた。
お店のテレビから流れていたニュース。政治家がインタビューに答えていた。
「最近話題になっているけれど、私は同性愛者なんて実際に見たことも聞いたこともない。私の周りにはそんな人はいませんよ」
目の前の友達が、ほんの少し眉を寄せて、ぐっと唇を引き結んだのが見えた。
私はとっさに、口を開いていた。
「そんなこと、ないのにね。あの人が見ようとしてないだけで、いるのにね」
すると友達は、驚いたように目を丸くして、やがてぽつりとつぶやいた。
「そうだよね」
「うん」
私たちは、お互いの顔を見て、ちょっとだけ笑った。
少しだけ、「何か」をできた気がした。

ハンナ・アーレントという20世紀の政治哲学者は、彼女の生きた時代を「砂漠」と呼んだ。
「皆と同じ」でいられることに、ほっとするとき。
排除される誰かの痛みから、目を逸らすとき。
砂漠は今日も、じわじわと、まるでバクテリアみたいに拡がっていく。
乾いた砂の底には、きっと、存在を無視された人々の痛みが埋まっている。
その痛みを、もし想像することができたなら。
声をあげることができたなら。
少しでも、明日の自分と世界を変えられるだろうか。

「考える」って、なんだろう。
相変わらず、私は無力で臆病だけど。
それでも、私とあなたにとって、息のしやすい世界であるように。後悔しないでいられるように。
苦しみながら、考える。

執筆:押山詩緒里(哲学)