行動は、どうつくられるのか?
エスカレーターで立ち止まっていたら、うしろから来た人に軽く舌打ちされた。
急いでいるのはわかるけれど、少しだけ気が重くなる。
どこかおかしいと感じつつ、「歩いたほうがいいのかな」と思ってしまう。
片側に立ち止まり、もう一方は空け、急ぐ人が歩けるようにする。
日本各地で見られる自然発生的なルールだ。
これが本当によいルールだと思う人は少ないだろう。
人の流れが悪くなって行列ができている。
動いているエスカレーターで歩くのは危ない。
みんな不合理だと思っているが、定着していて変えられない。
こういったことは、社会のなかでたくさんある。
これを解決する、たぶん最強の手段は、法律による強制だ。
罰金が取られるならば、誰もエスカレーターで歩かなくなるだろう。
しかし、無数にあるエスカレーターで取り締まりをするのは難しい。
もっと簡単な手段はないだろうか。
名古屋市は最近「エスカレーターでは立ち止まる」ルールを浸透させた。
日本の主要都市では先駆的な例だ。どうやったのか。
2023年の条例で、立ち止まることが義務とされた。
義務といっても、罰則はない。
だからといって無視されるかというと、そうでもない。
とにかく文章にすることで、理念としての力ができる。
ほかにもさまざまな手段が使われた。
ポスターや音声による啓発のほか、「なごやか立ち止まり隊」が結成され、片側に立って注意を促す活動も行われた。
大阪万博の最寄り駅では、足元に光を当てて立ち止まりを促す工夫がなされている。
強制ではないが、ちょっとした誘導をする「ナッジ(そっと後押しする工夫)」だ。
こうした手段は、単独だと効果はそれほどないかもしれない。
しかし、組み合わせによって力を発揮する。
犯罪防止など、もっと深刻な例だったらどうだろうか。
いろいろ「実験」しながら、最適なバランスを見出す。
現場の環境まで含めた「法のデザイン」だ。
法律学だけでなく、経済学や心理学、教育学などと協力して進める必要がある。
なんだか誘導されているようで気持ち悪い、という反発もある。
正面から強制してくれたほうが、ちゃんと議論できてよいかもしれない。
ここには哲学の出番もある。
ルールや強制だけでは、人はなかなか動かない。
では、どんな方法なら、人は動かされて「納得」できるのか。
その問いを考えることは、これからの社会のかたちを考えることにもつながっている。