そのルール、自由を育てていますか?
自由とは、言いたいことを言えること。
そんなふうに思っている人は、多いのではないでしょうか。
誰にもじゃまされず、気兼ねなく、自分の考えを伝えられる。
――それが「自由」のある社会のかたちだとしたら、それを縛るルールはないほうがいい。
こう、思われるかもしれません。
けれど、ほんとうにそうでしょうか。
たとえばSNSでは、誹謗中傷を防ぐルールや、誤情報に対するファクトチェックがあるほうが、安心して言葉を使えると感じる人がいます。
一方で、そうしたルールによって、自由が狭められていると感じる人もいます。
どちらの感覚も、たしかにある。
そのあいだで、わたしたちの「自由」は揺れています。
この違いは、国のあり方にも表れています。
アメリカでは、トランプ大統領が、SNS企業による投稿削除を「表現の自由への侵害」として問題視してきました。
一方、ヨーロッパ、とくにEUでは、差別や虚偽情報への対応こそが、健全な自由を守る手段と考えられています。
そもそも、自由という言葉には、二つの面があります。
ひとつは「縛られないこと」。
もうひとつは「守られていること」。
たとえば、表現の自由という権利は、国家がその自由を保障すると決めているからこそ成り立っています。
好きなことを、好きなように言える。
??それだけでは、自由は保たれない。
ときには、誰かの言葉によって、傷つく人がいるからです。
だからこそ、一定のルールが必要になります。
自由を奪うのではなく、自由を保つための枠組みとして。
他方で、「誰の自由を守っているのか」が不明なままつづいているルールもあります。
たとえば、結婚を異性カップルにかぎる制度や、夫婦別姓を選べないいまの仕組みは、多くの人にとって当然のように思われてきました。
けれど、それらが制約している自由が、たしかにある。
「このままでいいのだろうか?」という問いは、個人の生き方を守るうえでも、避けては通れません。
目の前のルールを問いなおすこと。
その積み重ねが、わたしたちの自由を、すこしずつ確かなものにしていくはずです。
自由とは、ただ与えられるものではなく、問いながら育てていくもの。
ルールを拒むのではなく、見つめなおすこと。
その繰り返しのなかに、わたしたちの未来の自由があるのかもしれません。