あなたにできるケアは、何ですか?
「ケア」という言葉から、どんな情景を思い浮かべますか。
母親がわが子を抱き、微笑みながらあやす姿。
ヘルパーさんがおばあちゃんに、優しく声をかけながら、笑い合う姿。
看護師さんが患者さんに寄り添い、痛みの訴えに耳を傾ける姿。
温かく、優しく、血が通い、そして愛情に溢れている。
柔らかく、朗らかで、それでいて、脆く崩れてしまいそうなほどに、尊くかけがいのないもの。
しかし、それらはケアのひとつの側面にすぎません。
毎晩、子どもの夜泣きに起こされ、イライラしながら寝かしつけようとする母親の姿。
他人の排泄物を処理するヘルパーさんの姿。
患者さんから怒りを向けられ、困惑し悩む看護師さんの姿。
そこにあるのは、不安、動揺、混乱、苛立ち、軋轢。
身体的・精神的疲労、嫌悪、拒絶、不快。
ときに、相手を殺してしまいたい、という衝動に駆られるまで、追い詰められてしまう。
これらもまた、ケアのひとつの側面です。
イギリスのケア研究者たちが結成した「ケア・コレクティヴ」は、ケアにまつわるこうした相反する感情を認めることの重要性を説きました。
また、忘れてならないのは、このケアの役割が、家父長制のもとで、家長に従属せざるをえない女性たちに、「押しつけられてきた」ということです。
政治学者のジョアン・トロントは、ケアはジェンダーにこだわらず、人類みなが分担するべき営みであり、政治でも中心的に扱われるべきだと指摘しています。
私たちが考えなければいけないことは、大きく分けてふたつあります。
ひとつは、ケアを神聖化しないこと。
ケアに従事するなかで、負の感情がこころに渦巻くのは、当たり前のことだと認めることです。
憎しみの感情が生まれても、それはけっして不適切な感情ではありません。
自分はケアする人として失格ではないかと、どうか自分を責めないでほしい。
そしてふたつめは、ケアは人が生きていくうえで、欠かすことのできない営みだと認めること。
だから、「仕事が忙しいからケアできない」という免罪符をかざすのはいただけません。
むしろ、「仕事のせいでケア活動に従事することができない」というあり方に疑問をもってほしい。
誰かがケアを担ってきたからこそ、いま私たちが生きているという事実。
そのかけがいのなさを自覚し、誰もがケアに関わることのできる社会をつくっていく。
小さなことからでいい。
いま、あなたにできるケアは何か、を考えてみませんか。
そして、それに挑戦してみませんか。
いつか、ケアを「押しつける」という状況がなくなる日が来ることを願って。