「あの人たち」は、どこにいるのか?

「外国人は犯罪を起こしやすい」
「あの民族は暴力的だ」

こうしたステレオタイプに反論するとき、私たちはしばしば数字を持ち出します。
実際に犯罪を起こす人は、ごく一部しかいない、と。

では、その事実を知れば、「外国人は犯罪を起こしやすい」という見方も消えるのか?
そう簡単にはいかない、というのは、私たち自身、よく知っています。

認知科学者のサラ=ジェーン・レスリーは、「蚊はウエストナイルウイルスを運ぶ」という面白い「一般化」の例をあげています。

実際にウイルスを運ぶ蚊は、ごくわずかです。
それでも私たちは、「ほとんどの蚊は運ばないのだから、この見方は間違っている」とは感じません。

一般化は、「どれくらい多く当てはまるか」だけで決まるものではありません。

とくにリスクをともなう場合は、わずかな例からでも一般化されやすい。
めったに起きなくても、見逃したときの代償が大きいからです。

「あの人たちは危ない」。
こうしたステレオタイプにも、これと同じ一般化の働きが入り込みます。

だから、「実際には、ごく一部しかいない」という数字が正しくても、それだけでは、なかなか見方が変わらないのです。

しかも、一般化は、私たちが世界を理解するための基本的な働きでもあります。

世界のすべてを、一つひとつ確かめながら生きることはできません。
だから、かぎられた経験から「だいたい、こういうものだ」と見通しをつけながら、世界に向き合っています。

一般化すること自体を、私たちはやめられはしないのです。

では、冒頭のようなステレオタイプに対して、私たちは無力のままなのでしょうか?

レスリーは、ここでもうひとつ、興味深い指摘をしています。
知るほど、一般化する範囲は細かくなっていく。

たとえば、ロットワイラーが子どもを襲ったとします。

犬についてよく知らなければ、「犬は危ない」と大きく括る。
犬について知っていれば、「ロットワイラーは危ない」と見る。
さらに詳しく知れば、育てられ方や訓練の違いに考えが及ぶ。

「あの人たちは、こうだ」。

そうやってひとまとめにしていた人たちも、実際に知っていくと、ひとつの言葉では捉えきれなくなっていきます。

思っていたような人ではなかった。
同じだと思っていた人たちのなかに、まったく違う考えをもつ人がいた。
ひとつに見えていた「あの人たち」に、ひとりひとりの顔が生まれる。

私たちは、一般化することから逃れられません。
けれど、誰かを知るほど、一般化の範囲は狭まり、世界の見え方は細かくなっていきます。

誰かを知るとは、その人について知るだけではありません。
自分がどれほど低い解像度で世界を見ていたのかを、知ることでもあるのです。

執筆:芹沢一也(社会思想)